早く下りたいです

 

 

(以下、「狂気山脈」のネタバレを含みます。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楽しかった……。
7時間超の配信、最後まで、そして感想戦まで、後日の個人配信に至るまで本当に楽しかった。物語がぐっと動き始め、RPもノッてきてからは特に楽しかった。
「あそこ面白かったな〜」「あそこドキドキしたな〜」とか細かく沢山あるのだけれど、ここでは主に志海三郎の話をしたい。

 志海三郎、キャットフードの販売会社の営業である。営業成績がダントツ下位でも気にすることなく、仕事をさぼって登山のための筋トレに励む窓際族。登山中、命の危険に晒されると快感を覚える性質があり、それ以外のことにはさして興味がない。
 一見なんの変哲もない会社員。むしろ社内の人から見たら「いつもヘラヘラごまかしてばかりの、仕事のできない社員」でしかない。志海をそう評価している人間の誰一人として志海が登山に於いてはヤベー奴だということを、知る由もない。
 このキャラ設定が公開された時点でもう「オアア…」ではあった。
 自分が見ているのはその人のごく一部分でしかないんだよな、と思うことは日常のあちこちに転がっている。実況者が配信で職場の話や過去のバイトの話をするのを何度も聴いてきたけれど、その職場にいた人は誰も彼が実況者だってことを知らないように。私が実況動画にハマっていて専用のアカウントを持っていることを知らない友人の方が多いように…。

 彼は営業成績と引き換えに165cm・体重90kgの強靭な肉体を手に入れることとなるのだけれど、動物全殺しの男杉山の172cm・62kgと比較すると本当にヤバくて面白い。どれだけ仕事サボったらそんな体になれるんだろう。

 shu3はどんなRPをするのかな〜と思って見ていたけれど、一貫して「良心ゼロのヤベー奴」を貫いたのが良・良・良だった…!
 のちの配信で本人も話していたように、「色々あったけど、皆さんと登頂できてよかったです」とか、例えば「なんだかんだこのメンバーで登頂できて楽しかったです」とか、耳ざわりのいいことなんていくらでも言えたと思うのだ。言いたくなるとも思った。でもそこでそうならずに最後まで志海としての尖った冷たさ、自分本位な発言を繰り返したことで、最後の結末すらも「彼らしい」と言われるまでになったんだと思う。
 「誰が山頂最初に踏む?」って話になった時に、志海がぐいぐいトップバッターを志願するのも良かった。普段の配信でshu3が自分が行きたいです!って強情になるところを殆ど見たことがなかったので、「キャラが言ってる」感を余計に強く感じたというか、「あ〜今、志海が行きたがってるんだ」と思えた。ずっと志海だった。

 志海が夢を見るシーンを経て、さらにキャラクターに厚みが生まれたとも思う。ダイスを振ったあと、むつーさんの「志海さんがこうなってしまったの友人のせいの可能性ありますよこれ」という超ナイスアシストがあって、そこから一気に解像度が上がった感じがした。(いいKPだ〜…)
「僕はもうひとりで登りたくなりました」「ひとりで行きたいです」「ちょっと足手まといなんで君たち」「いやーもう    いやな夢見ましたね」
 このあたりの言動、ただのヤベー奴のヤベー言動とも処理できるし、夢を見て過去の引き出しを開けてしまったことで益々狂気に拍車がかかったとも解釈できるし、絶妙だったと思う。深読みしたければしたら、くらいの。深読みするとしたら友人を喪失した過去を経て、他人と深く関わると精神衛生上碌なことがないな、と思った志海の諦念が数々のヤベー言動につながっているのかな〜と、やっぱり考えてしまう。

 私は、志海が最後ひとりだけ下山に失敗したことについて、ある意味では納得できている。納得できてしまうものだったということは受け止めている。「志海らしい終わりだった」という言葉にも「わかる」と言える。
 でも登頂した時の志海の「早く下りたいです」「次また登りたいです」って言葉を思い出すと、どうしてもヴ……!という気持ちになってしまうのだ。次行きたいって気持ちがたしかに彼にはあったのに。「人生の絶頂です」とまで言った彼だったけど、絶頂が更新される可能性がその言葉にはあったのに…。

 山頂を最初に踏みたい人は他にもいた。それでもなお「踏みたい踏みたい!」「おれが踏みたい!」「もう生きてる意味ないから」って譲らなくて、結局みんなが譲った時に「やったー!」って無邪気に喜んで、第一踏のその足跡を志海が刻めたこと。その時はマジでヤベー奴だなって思うだけだったけれど、全てが終わった今ではあの時の第一踏が志海でよかったよな〜って本当に思う。そう思うまでに至る道もダイスの運によって齎されたものだったんだと思うとTRPGって面白いな…。

 「いやでも…登った瞬間は嬉しかったでしょ?」ってえべたんの戸惑い、「お前、ここに残らないよな?」って八木山の駄目押し、「やめてな?やめてな マジで」って杉山の本気の引き止め、これらがより志海のヤバさを引き立てるかたちになっていたと思う。時間が経つほど、会話が重なるほどどんどんキャラクターが立体的になっていくのが分かった。会話の積み重ねで肉付けしあっているような感覚。
 「今日、今日この時のために生きてきたのかもしれないです」のあとに「生きてる…!」って続けて消えていった志海の輝き、それを見てもなお喪失感に耐えられなくて、ウーーー!!となってしまう自分と向き合った時、人間のエゴって怖いなあと思った。

 最後のほうで梓ちゃんに「(3000m地点まで)どうやって降りたの?」と訊かれた時、えべたんが「パラシュートで…志海さんが見つけたパラシュートで降りてきたの」って言うシーン最高だったな。志海が見つけたパラシュートで3人は生き延びたのだ。そんなこと志海はどうでもいいと思っていそうだけれど。

 のちのち、登山中に日本人一名が行方不明になったってニュースが流れたりして、キャットフードの販売会社では「志海さん行方不明になったらしいよ」「えーそうなんだ〜」なんて会話があるのかもしれない。それも一過性のもので、そのうち志海のデスクには他の誰かが座ることになるし、元々営業成績の悪かった志海の穴なんて、多分そう大きくはない。ふつうに回ってゆく日常があるんだろうな。そんなことも、やっぱり志海はどうでもいいと思っていそうなのだ。つくづく良いキャラだった。良いRPだった。多分何度も、何度も見返すと思う。当分下山できそうにない。

 

 

 

何も残らない を残す/ラスアス2の感想(ネタバレあり)

 


 ラスアスが好きだ〜!これまでにやってきたゲームの本数がそう多くないとはいえ、これを超えるゲームには今後も出会えないんじゃないかという疑念はなかば確信とも言える。
 ラスアス2は、私にとって初めての「完全初見でやるラスアス」だった。(1はshu3の実況「不可能を越えた超やりこみラストオブアス https://www.youtube.com/watch?v=92Lqo5JY7Lk 」をまるっと見てからプレイしたので。この動画がきっかけでPS4とラスアスを買ったくせに、動画を見る自分とラスアスをプレイする自分、その順番を入れ替えたい、時間を戻したいと何度思ったかわからない。)
 2の発売をずっと心待ちにしていたのに、やり始めたら苦しくて、クリア後すぐは思い出すだけで辛くて胃の痛くなる日々だった。それでも今、やってよかったとはっきり思っている。大好きなところと、大嫌いなところと、どちらもあって、それら引っくるめて「これは名作だ」と思う。そう思うまでのことを、長くなるけど書いていきたい。
(ここ良かった!ここ苦しかった…というのをずらずら書いているだけなので、ネタバレがめちゃくちゃあり、レビューと言うより自分のための記録のような文章です)

 

 

「ジョエルとエリーの物語である」と信じて始まったPart2

 ネタバレは嫌だけど情報は追いたいというせめぎあいの結果、SNSはワードミュートを徹底しつつ、公式のトレーラーは我慢できずにチェックしてしまっていた。発売日前に公式から出た映像はおそらく全部見ていたと思う。

特に発売日アナウンストレーラーと
https://www.youtube.com/watch?v=OkT-oRad_fs

2018年に公開されたゲームプレイトレーラーが印象的。
The Last of Us Part 2 Gameplay Trailer (4K) - E3 2018 - YouTube

(このトレーラーが一番好き)

 プレイ前にこれらを見て、エリーとキスしていた子(ディーナ)が死に、それがきっかけとなって復讐の物語が始まるのかな?という予測を立てていた。ジョエルの生存についても疑いすらしていなかった。
 上に貼った動画の1つめ、発売日アナウンスのトレーラーを見てほしい。一人で敵地にいるエリーの口を後ろから塞ぐ人物。振り向いてその姿を見、「なんでここにいんの」と驚くエリー。その直後に「お前を一人で行かせるわけないだろ」と言うジョエルのカットが入っている。
 どうしたって「何か事情があって道を分かたれたエリーとジョエルが再会を果たした」と受け取れるシーンなのだ。そのシナリオを素直に信じていた。
 結果から言えばあの時後ろからエリーの口を塞いだのは全くの別人(ジェシー)であり、意図的に別シーンのジョエルとジェシーを繋いだ編集はかなりひどいミスリードと言えるのだけれど、そうまでしてでも絶対に悟られたくなかったのが「ジョエルの死」という2における最も衝撃的な出来事だったのだろう。
 PART1の冬の章で、デヴィッドに連れ去られたエリーの行方を知りたいがために敵を連れ去り、「今からお前の膝を割る」と脅し、拷問の末ぶち殺したジョエルが、今度はショットガンで自身の膝を撃ち抜かれ、拷問を受け、泣き叫ぶエリーの目の前で殺される。悪夢のような出来事だ。なんなら悪夢でいいから夢であってほしかった。
 前述の通り私はトレーラーの影響でジョエルの生存を信じていたので、ジョエル殺害の後一旦プレイをやめて「死んだっぽかったけど(トレーラーに出てきたし)多分生きてるよな…」と自分に言い聞かせていた。本当に死んでしまったんだと理解したのはジョエルの墓と、たくさんの花束が供えられたジョエルの家が映った時だ。これから先何十時間分プレイしたとしても、その世界にもうジョエルはいない。
 1に登場したビル(彼にはパートナーがいたけれど、そのパートナーは感染をきっかけに自死している)とのやりとりが頭をよぎる。

「昔はな、俺にも大切な人がいた。だが今じゃそんなものを持ってるヤツから死んでいく。
じゃ どうするか? 頭を使ったね。一人の方がいいと気づいた」
「ビル、そういうことじゃないんだ」
「いや、そういうことだよ」

 花束だらけの階段を登ってジョエルの家に入った時は、そのゆたかさに少し驚いた。趣味を楽しんでいる大人の家。ジョエルっぽくないと思った人も少なくないだろうし、私も初めはそう思った。でも多分、元々ジョエルってそういう人だったのだと思う。1の冒頭でサラがジョエルに宛てた手紙に「私の好きな音楽や映画だってまるで気に入らない。それでも最高のパパでいられるのって不思議。」と書いてあったり(サラにはサラの嗜好があるように、ジョエルにもジョエルの嗜好があることが伺える)、旅の途中でエリーにギターや映画の話をしていたように、世界の秩序が崩壊する前はジョエルにだって趣味があって、それを楽しめる人生だったのだ。ジョエルがそういう日々をすべてではなくても少しでも取り戻せていたんだなと知れたことは、その後にどんな未来が待っているかを見た上でもやっぱり嬉しかった。(ジョエルのマグカップめっちゃでかかった…)
 ジョエルの家の探索中、エリーがベッドルームに入って遺品を見たりするのだけれど、布団が朝起きた時のまま半端にめくれていたのが切なかった。自死願望の無い誰もが「私は今日死ぬ」とわからずにいつもの朝を迎えているんだよなと。

 

2の冒頭、ジョエルがエリーに向けて弾き語りを披露するシーンがある。

「君を失ったら
我を失ってしまうだろう
ここで手に入れたものすべては
自分ひとりじゃ 手に入れられなかった
ろくでなしなこの俺でも
君がいればまっとうな生き方ができる
他人のマネをするまやかしの自分は
もう必要ない
だって信じているから
君とならうまくいくと
二人の未来を
信じているから」

これ……。(原曲はFuture Daysという歌です)
「君を失ったら我を失ってしまうだろう」という歌詞、ジョエルの気持ちを代弁してるじゃん…という感じでかなり胸に迫るものがあった。そしてその歌詞が、今度はそのままエリーに返ってくる。
ジョエルの弾き語りを聴いたその時のエリーは実感がなかったかもしれないけれど、ラスアス2とはまさに、ジョエルを失ったエリーが我を失い彷徨っていく物語なのだ。

 一方ジョエルの死後、ディーナとともに復讐の旅に出たエリーが、バリアント・ミュージックショップで拾ったギターで弾き語るシーン。
「君を失ったら…」まで歌って、エリーは歌うのをやめてしまう。この時にエリーは初めて「我を失ってしまうだろう」の歌詞を自分と重ねたのかもしれない。
歌うのをやめてしまったエリーは、その後a-haの名曲「Take on me」を歌い始めるんだけれど、これの歌詞、というか翻訳?がまたすごい。

「いくら話しても
肝心なことが言えない
でもどうにか伝えてみよう
相変わらずつれない君に
そっぽ向かれるだけだけど
いつか振り向かせたいんだ
僕を受け止めて
早く受け入れて
もうじき僕は
遠くへ行ってしまうから
もう知ってるよね
僕が半人前だって
でも僕なりにもがいて
生きるってことを 噛み締めるんだ
君もそう思わない?
後悔するくらいなら やりきろうって
僕を受け止めて
早く受け入れて
もうじき僕は
遠くへ行ってしまうから
遠くへ行ってしまうから」

これ、1の時のエリー視点なようにも感じるし、2の時のジョエル視点でもあるように感じないだろうか?この翻訳すごい…!!!
(ってめちゃくちゃ感動してたのにこの後そばで歌を聴いていたディーナとのラブい思い出話が始まったものだから「解釈違った?!えっこれディーナの話?!」って笑ってしまった)

 

 ラスアスというゲームが評価された要因は、もちろん感情移入できるシナリオやグラフィックの美しさだとか、ゲーム性の面白さだとか色々あるとはいえ、何よりジョエルとエリーというキャラクター、そして二人の関係性の描写の素晴らしさによるところが大きいだろう。
 もしPART1がいきなり「20 YEARS LATER」から始まっていて、愛娘のサラを失うまでの詳細をプレイさせられていなかったら、ここまでジョエルに肩入れってできなかったと思うのだ。サラがプレゼントしてくれた時計をつけて「これ…すごくいいけど…動いてないぞ?」なんて冗談を言うたのしい父親としてのジョエルを見せ(ここ大好き)、その後銃撃によってサラを失い、時計が本当に動かなくなってしまうまでをしっかり描くこと、操作させること。これがあったから私達は「彼はいちばん大切な存在を失った人なのだ」という実感を胸にしながらジョエルを操作することになったし、エリーがかけがえのない存在になっていく過程を「この子が大切だよな、大切って思うことが怖いよな…」と噛みしめることができたのだと思う。
 私達はジョエルの味わった絶望を冒頭でこの身に受け、エリーと出会い、小生意気な女の子が自分に心をひらいていくくすぐったさを体感し、「私の大事な人は全員、あたしを置いてったか、死んだの。全員ね…あんた以外は!」というエリーの訴えを受けて「絶対にこの子を一人にしない、したくない」と誓ったのだ。みんなそう誓ってプレイした(と私は思ってる)し、だからこそ道中で沢山の人を殺めていく時に、その人達の人生についてはなるべく考えないようにしてきたと思う。そこに向き合ってしまったら収集がつかなくなるから。あの荒廃した世界に於いて、そんなに沢山の人生に思いを巡らしてしまったら、「負けてしまう」から。

 エリーは、病院に着いたら自分が死ぬ…とは思っていなかったかもしれないけれど、もし面と向かって「ワクチンを作るにはあなたの命を犠牲にしなければならないんです」と告げられたら「わかりました」と言ったんじゃないだろうか。そう取れる描写が2の中にも存在する。
 極端な話世界中の人が感染して自我を失うことがあっても、エリーだけは「そう」ならない。ライリーが言っていた「待ってればいいじゃない、どうせ最後はみんなおかしくなっちゃうんだから」という台詞、エリーの「私はまだ待ってるの」という台詞。でもエリーはどれだけ待ってもおかしくならないのだ。ひとりだけ正気のまま取り残される未来をきっとエリーは想像したことがあるだろう。そしてエリーは、「今まで沢山の人が犠牲になるところを見てきたけど、それが終わるかもしれない。私の免疫で終わりにできるかもしれない」という事実を知っている。旅の途中でテスが死んだことをエリーはずっと気にしていた。"巻き込んだ"という意識が強かったのだと思う。そういう子にとって、「私の存在によって多くの人が生かされる」「終わりに出来る」可能性が示唆されていることがどれだけ救いになったか。自分の存在、自分のこれまでを肯定するための要素になり得たか。
 「ファイアフライはワクチンの開発をやめた」「お前以外にも免疫を持っているやつがいた」というジョエルの言葉が嘘だったことを、2でエリーは知ることになる。その時のエリーの半ば過呼吸のような泣き声。許せないという激昂。自分が死ぬことより辛かったのかもしれない。これまでに死んでいった人の数多の魂を背負いながら生きるよりも、人類の救いとなって自分が死んだほうがまだいいと、私ならそう思う。「(ワクチンを作れていたら)生きた証を…残せたのに」ってエリーの言葉は本心だと思う。
 エリーのために戦ってきたジョエルではあったけれど、厳密には「エリーを失いたくない自分のため」ということであって、その裏には間違いなくサラの死が関わっている。エリーの意思はそこに介在していない。それはやっぱり自分勝手だと思う。

 でも、でもだ。それでも私は「もう一回神様がチャンスをくれたとしても、きっとまた同じことをする」というジョエルの言葉にも、「わかる」と言わざるを得ない。勝手だって分かっていても。

 ずっとジョエルとエリーの話をしていたいけれどそういうわけにもいかない。はっきり言ってしまえば「大切な人を失ったのってジョエルやエリーだけではないんだよ。あなたたちが奪った人生があるんだよ」と叩き込まれていくのが2なのだ。ジョエルが殺してきた数多の人、そしてその周りの人々だって大きな苦しみを腹に抱えている。その中のひとりが2のもうひとりの主人公、ジョエルに父親を殺された女の子、アビーなのである。

 

アビーと接するたびに自分が二人に分裂する

 彼女はジョエルを嬲り殺した張本人であり、おそらく今もっともヘイトを向けられている存在だろう。
 とはいえ彼女にもジョエルを殺した理由というものが存在する。彼女の父親は医師であり、エリーの脳からワクチンを作り出す、その命を受けていた張本人だ。
 1で手術室に横たわる意識のないエリーをいざ連れ出すシーン、手術室の中には3人の医療従事者がいて、そのうち2名の看護師は殺さずに見逃すことが可能だったんだけれど、執刀医だけは殺さなければ先に進むことができなかった。その「どうしても殺さなければならなかった存在」、それがアビーの父親だったなんて、今さら言われても困るんですが…という感じ。でもこの「今更言われても…」っていう感想そのものがめちゃくちゃ勝手だなって自分で思う。
 思い返してみればその時の私は「絶対エリー救うマン」になっていて(そういうジョエルになっていて)、初プレイのときはアビーの父親を火炎放射器で燃やしたと思う。もう殺し方とかどうでもよかった。迷いも後ろめたさも正直なかった。もしもあの時分岐があって、「医師を殺してエリーを助けますか?」「エリーを犠牲にして世界を救いますか?」という選択肢が与えられたとしても、私は絶対にエリーを救う道を選んだと思う。そういう旅路をずっと歩んできたのだから。
 手術の前、狼狽する父にアビーは「もし免疫を持っているのが私だったとしても、パパに手術してほしい」と言う。これ、いいシーンだったんだけど正直すごくいやだった。もしもの話をしたらみんなそう言うよと。私だってそう言う。でも結局あなたも私もエリーじゃないじゃん…と思ってしまう。「じっさいにそうなる」人ではない人が何を言ったってさ…。

 …と思っていたのに、シアトルでの三日間をアビー視点で過ごし、そしてアビーの過去をなぞってしまうとアビーのことを憎みきれない自分があらわれてきた。アビーにはアビーの人生があり、仲間がいて、それが全然「悪人の人生」じゃないものだから。そしてアビーもアビーで、「理屈ではない感情」に翻弄されているひとりであったから。
 旅の途中でアビーにも"守りたい存在"が出来る。レヴとヤーラ。特にレブ。彼らはセラファイトという宗教団体のメンバーであり、アビーが所属しているWLFとは対立関係にある。レブとヤーラがアビーのピンチを救ったことがきっかけで、アビーはWLFに背いてでも彼らを守ろうと奔走することになるのだけれど、ところどころで意図的に「エリーを守ろうとするジョエル」と重なるように描写されている。このあたりが本当にずるい。アビーが見せる親のような優しさを頭では理解できるんだけれど、これを受け入れるということは「ジョエルの仇を討つエリー」の肩を持つことに逆行するにも等しいからだ。
 アビーはとても魅力的なキャラクターだったと思う。フィジカル強いのに高いところが苦手で(かわいい)、仲間の言葉に傷ついて涙する脆さもある。一部ではなんでアビーこんなごっついんだみたいな声があったみたいだけれど、回想シーンで見られる昔のアビーは今より全然華奢だった。彼女を変えたのはジョエルへの復讐心にほかならなくて、彼女が憎しみに身を投じてきた年月が彼女の外見に表れている、それだけだと思う。
 …というように、気づけば私はめっちゃアビーの味方をしてしまうのだ。アビー編をプレイしている間ずっと、自分が二人に分裂していくような苦しさが伴った。

 特に苦しかったのはアビーとエリーがついに邂逅しタイマンの勝負になるところ。この時プレイヤーが操作するのはアビーなのだ。アビーの視点から見るとエリーは完全に敵で、なんならプレイ感は1でエリーとデヴィッドが戦った時のそれに近い。私達はエリーを倒そうとしなければならない。ここ、どうしてもエリーを攻撃したくなくて何度も死んだ。

 

 

ブレないジョエルとブレブレのエリー

 結局アビーとエリーのタイマンは、アビーがエリーにとどめを刺すことをやめて去ることで一旦終了する。舞台は暗転し数年後、ディーナが身ごもっていた子ども(JJ)が生まれ、心機一転ディーナとJJとエリーが三人で暮らしているところに移る。復讐の旅の後だなんて思えないくらい平和な日常が描かれている。
 けれどそんな日常も束の間、エリーがPTSDの発作を起こしてしまう。ジョエルが撲殺されるところのフラッシュバック。その惨さ、見ていられない。やめておけばいいのにまたアビーを追って家を出ようとするエリーに、ディーナが「あんな女が家族より大事なの?」と詰め寄るのだけれど、多分どっちが…とかって軸で考えていないのだ。ただ苦しくて、"今"幸せでも、心の別のところに過去の苦しみがずっと精算されずに残ってしまっていて、その苦しみを抜ける術が分からない。分からないなりに「復讐を遂げたらもしかしたら救われるのかもしれない」という可能性に、すがるしかないのだ。

 再度復讐の旅に出たエリーは、その道程の末にアビーと改めて対峙し、海の浅瀬で戦うことになる。「私は戦わない」と言ったアビーは、復讐の空虚さに多分もう気がついている。
 それでもエリーは自分を止めることができない。波の中で何度もアビーを殴り、水中にアビーを沈めて力を込めるシーンはこちらもとても冷静ではいられない。そんな時にカットインしてくるのが穏やかに微笑む生前のジョエルの姿なのだ。苦しむジョエルの姿に復讐心を煽られてここまで来たのに、そんなエリーを踏みとどまらせたのもジョエルだった。ここで初めてエリーはその手にこもっていた力を抜くことになる。レブと一緒に行けとアビーを逃がし、海にひとりぼっちになる。

 戦いを終えたエリーはディーナと赤ん坊と過ごした家に戻るのだけれど、そこにもう彼らの姿は無い。このディーナの行動を責めることも難しい。子供という守るべき存在ができた今、過去の苦しみに囚われ続けるわけにもいかないというのはよく分かる。
 エリ―は部屋に残されたギターを手に取り、ジョエルに教えてもらった曲を弾こうとする。でもアビーとの戦いで失った指のせいでコードをきちんとたどれず、欠落した旋律しか奏でることができない。何かを悟ったかのようにギターを部屋に残し、一人でエリーは歩き始め、画面外に消えてゆく。ひとつのゲームの終わりとしてあまりにも寂しく、虚しい幕引き。今作、とにかく執拗にギターを弾かせてくるので「この操作いるか…?」って思っていたんだけれど、すべてはこの欠落を体感させるためのものだったのだと分かった時は「製作者、人を苦しめる能力に長けすぎている…」と思った。

 思えば1のジョエルってほとんど迷いなく行動していたので、プレイする側としてはかなりストレスが少なかった。ことエリーを守ることに関しては一切のためらいが無くて、「殺す」「殺す」「絶対殺す」の繰り返し。マーリーンに撃たないでと懇願された時ですらノータイムでバンなのだからすごい。
 そんなジョエルとほぼ真逆と言えるのが2のエリーだった。嘘をついていたジョエルを許せない、でも許したい。アビーを追うことを一旦はやめたのに結局また追い始め、やっと殺せるタイミングが来たのに殺しきれない。ディーナと赤ちゃんとの生活を一時は楽しめていたのに、選び切ることができなくて、結局二人からも選ばれずに一人になってしまう。
 ずっと迷っていてずっとブレているのがエリーだった。それを操作するのだから「振り回されてる」感覚がものすごく強くて、ストレスを感じて当然なのだ。でも、このブレがあったからこそ、1では頭から追いやっていた「自分が今やってることってなんなのか」という疑問に向き合えたのだと思う。
 正直に言えば1をクリアした時に、大きな感動と一緒に「何かを置き去りにしてきた気がする」という気持ちがあった。置き去りにすることでエリーを救えたのだから、その気持ちは回収しようがないことも頭では分かっていた。そんな置き去りにしてきたものを、今度は真っ向からぶつけられたのが2だった。だからだろうか、「結局どうしたらよかったのか」という問いに答えは出なかったのに、プレイ中もクリア後も苦しかったのに、どこかで妙にすっきりしている。

 

 ジョエルが死ぬ前、エリーは酒場でちょっとした揉め事を起こしてしまう。揉めている最中にジョエルが仲裁に入ってくれるのだけれど、エリーは「助けてくれなんて頼んでない!」とブチ切れる。そう言われたあとのジョエルの「わかった」という声、そしてしょんぼりした顔が切なくてたまらない。エリーのこの激昂、思春期の子の立場になって考えてみるとたしかに怒ってもおかしくないのかも…と感じるのだけれど、ジョエルがそのあたりを分かれないのは当然といえば当然なのだ。だって愛娘のサラは思春期にさしかかる前に死んでしまったのだから。初めてなのだ、ジョエルが思春期の(娘同然の)女の子と関わるのは。
 このエリーの複雑な心境の描写は日記からも読み取れる。ジョエルが死んでしまった後、エリーは日記にジョエルの似顔絵を描くのだけれど、その目元だけが何度も何度も描き直されている。もうずっとちゃんと目を見て話せてなかったんだろうな、と感じさせられる。でも「あの人の顔を思い出したい」と思う瞬間が来ることなんて、生きてる間は知りようもない。

 生前のジョエルとの最後の会話。「(ワクチンについて嘘をついたこと)(私を生かしたこと)一生そのことは許せないと思う。でも…許したいとは思ってる」というエリーの言葉。それにジョエルは「それでいい」と返す。その後エリーが「わかった」「じゃあまたね」と言う。またねの先にはジョエルの死がある。
 思い返せば1のラスト。「誓ってよ。さっきファイアフライについて言ってたことは全部本当だって誓って」「誓うよ」という会話の後、エリーが「わかった」と言う。それを踏まえると2でジョエルとの会話の最後が「わかった」なの、すごい…。端々で1と重なるシーンが2は本当に多かった。

 重なると言えば2の回想シーンのひとつに、廃墟になった博物館にジョエルとエリ―が訪れる、というものがあった。これは多くの人にとってハイライトになったエピソードだと思う。展示されたロケットの中に入ったエリ―に、誕生日プレゼントとしてジョエルが渡したのがアポロ号の発射時の録音テープだったこと。「気に入ったか?」「気に入らないわけないでしょ」という会話。ロケットから降りたエリ―に、ジョエルがピンバッジを渡しながら「地球へようこそ」と声をかける粋さ。ボロ泣きの名シーンである。
 パート1の大学のシーンで、エリーが「あたし昔は宇宙飛行士になりたかった。宇宙を独り占めできるから」って言うんだよね。あの博物館でエリーは宇宙に触れたのだ。独り占めじゃなくてそばにはジョエルがいたのだけれど、その方がずっとよかっただろう。

 

 9割が苦しい2において博物館のシーンはほんとうに輝いていて、こんな二人はもう二度と見られないんだと思うと、またむくむくと憎しみが湧いてきてしまう。結局私は誰かひとりの肩を持つことはできないのだ。
 ここまで書いてきて思ったけれど、私は「ジョエルの気持ちもわかる」「エリーの気持ちも分かる」「アビーの気持ちもわかる」って、主要人物みんなに対して「わかる」という気持ちは持っている。でも、正直その誰もが自分本位に動いていて、客観性を著しく欠いている。過去や憎しみに翻弄されて、それぞれがめちゃくちゃな方向に生きている。だから「この人が正しい」とは一度も言えなかったのだ。
 そもそもが荒廃し、生きるか死ぬかの世界。法も無力化した社会で、他人に理解を示しながら理性で自分をコントロールすることがいかに難しいか。

 

「復讐は何も生まない」という理性と、理屈じゃない気持ちのせめぎあい。それに決着をつけるための作品というよりは、このブレの存在そのものに向き合わせるための作品。あれだけ色々なことが起きたのに、なんにもならなかったなと思ってしまう、そのむなしさ。「何も残らない」ことそのものを残す、それが2だったのかなと、私の感想の落とし所はここである。批判があって当然のテーマをここまで描ききってくださった制作陣の方々にほんとうに大きなリスペクトがある。GOTYおめでとうございます。やってよかった。

 

 

 

 

 

応援している人たちがCMに出た

 

 

自分を落ち着かせるために日記を書いています。

 

今更ながら私はshu3というゲーム実況者と彼の所属する「ナポリの男たち」というグループが好きで、彼らの動画や生放送を日々の活力にさせていただいている。
shu3はメンバーの中でもとりわけ「肉体の露出」を忌避する傾向にあり(昔の動画除く)、お菓子作りではトイレ掃除始めるのか?みたいなゴム手袋をつけていたり、過剰すぎるモザイクを多用したり、先日の山梨旅動画でも「影ですらNG」を出す徹底ぶりで、私はその姿勢にむしろ安心感すら抱いていた。あそこまで徹底されたらこちらも安心して視聴できるというもの。というか私は概念として、概念として応援しているので、別に、概念としての存在だけ感じられたら別によくて……

 

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ア゜……………………………

 

ほんとうはこんなふうに取り乱したくない、と思っていた。「どういうオタクでありたいか?」みたいなことはいちおう頭の片隅にあって、それはうまく言葉にしきれるようなものではないのだけれど。「人」として応援しているのか「実況」を応援しているのか、みたいなことだったりもして。そして、私はもう認めざるを得ないのだけれど、それなりの期間個人の雑談放送やチャンネル放送を聴いたりしてきてもう完全に「存在」っていう大きな括りまで「好い」が拡張されてしまった。もう実況だけが好きでそれ以外は別に興味ないな、という硬派なスタンスには戻れない。だって実況以外のことしてるときも面白いし、面白いから生放送聴くためにプレミアム会員抜けられないし、チャンネルにも入っているのだし。
これはこういう人間をあまり好かない人には既に届かない言葉かもしれないけれど、「アイドル視」ともまた違うような感じ。「キャー!」じゃなくて「オワー?!」のほうが近い。本当はこんなディテールの話はどうでもいい。し、個人的にはキャーでもいいだろうがと思っている。どういうスタンスで誰をどう見るかって他人がくさしたりコントロールできることではないので。
なんでこちらの「好い」が拡張されていったかって男たちの活動自体が実況だけに留まらず拡張されていったからでもあって。ラジオもそうだし、展示会も、グッズ作ったりするのも、りぼんに載るのも。向こうがいろんなことするからこちらもいろんな角度から彼らを捉えることになって、結果いろんな「好い」が集まって立体的且つ巨大な「好い」になっていったのだよな、と思う。

 

でも……………

 

www.youtube.com

 

 

いやどれだけ言葉並べてももうこのリンク埋め込むとすべてが0になるな…。

 今後どれだけペンチマン弄り見ても「違ったじゃん」と思ってしまうな…。

 

私はカナダの若手ピアニスト、シャルル・リシャール=アムランさんの大ファンで、ずっと音源やyoutubeの配信アーカイブを視聴していたんだけれど、結構前にはじめてコンサートに行った。ぎりぎりでチケットを買ったので前の方の席しかあいていなくて、かなり近くからステージを見上げる格好になった。(コンサートホールは音がぽーんと飛んでいくので、真ん中の席から埋まっていく)私はアムランの「音楽」が好きなのだから、コンサートに行くことも生音が目当てだったはず。目から入ってくる情報は別に…と思っていた、はずなんだけれど、実際にアムランが袖から出てきた瞬間、びっくりするくらいダーーーっと涙が溢れた。生きてる…!!!!!!!!と思って。そのことをふと思い出した。
自分にとってめちゃくちゃ素敵なものを提供してくれる人が、「マジで実在する」のを目の当たりにすることって、それだけでもうとんでもないインパクトがあるんだなと思った。今回もそれに近い感覚がある。あんなに面白いことやってるのが本当に「人間」だったんだ、という気付きというか、いや、もちろん解っていたけれど、「理解」と「実感」って全然違うんだな、違うな………。
大元は変わらず「あなたの音楽が好き」「あなたの作品が好き」なのだけれど、同時に「これを生み出せた、生み出すところまで歩んでくれた、あなたが好き」が背中合わせになっているのだなと改めて感じるのだった。(作品は好きだけど作者は好かん、みたいな例外もたくさんあるけれども)
漫画家さんのサイン会とかもそういう感じだと思う、「大好きなもの作りし者、同じ種族だったのか!人間、だったのか!」という…。
(念の為追記しますが勿論人類として好き、という話をしています)

 

人間ってすごいな………。

 

しかもその実感を得ることになったのがゲームっていう彼らのメインの舞台でのこと、というのがとても、いいな……。

 

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いいな………。

 

他の出演者さんのバージョンも観て、窪田正孝さん・森田望智さんの大人っぽいインテリア×夜ってシチュエーションも、マンウィズさんのアーティストっぽい(とは?)セットも、ブラウニー・コニーのポップな空間もどれもちゃんと個性があって。その中で男たちがごちゃごちゃっとした小物に囲まれて夕日の差し込む夕方に友人たちと集まってわーわーゲームしてる、みたいな生活感のあるスタイリングなのがめちゃくちゃいいなって思ったな……。
CMって尺の短さを思うと、男たちの(見た目の)キャラクター設定ってとても使いやすかったんじゃないかと思う。声にすごく特徴があるとか圧倒的な知名度があるとかじゃなくても、それぞれのビジュアルが立っているから映像として成立しているよなあと。すぎるにパンダって設定がついていて本当によかった。

 

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おとなになると花束なんてね、普通は誕生日にもらうか会社やめたときにもらうかだよ………。
クランクアップでもらう人生、想像できたか?

 

応援していて楽しいな、予想もつかないことがぐるぐる起こって。楽しい。ありがとうございます。

 

 

さまざまなかたちの愛

 

前に書いたドキ文の感想、の、続きです。

○前回

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プレイしながら、ゲームにおける、びっくり系の演出やホラー展開に強いのかもしれない、ということに気がついた。
「これは現実ではないのだし」とはなから思っているからか、正直まったく怖くない。
サヨリが首を吊っていた時も「どうしよう」と思いこそすれ、演出に対しての驚きはそこまでなかった。作詩におけるさまざまな単語の蓄積によって、こういう展開もあり得ると頭の隅にあったのかもしれない。

何より「これは現実ではないのだし」。

 

 

サヨリが読んだビンの詩の話

 

ビン

クッキー缶のフタのように、頭をパカッと開ける。
わたしの夢をぜんぶつめた、ヒミツの場所よ。
ちいさな日光のボールが集まって、子猫のようにすり寄ってくる。
親指と人差し指とで、ひとつつまむ。
あったかくて、ちくちくするの。
でもうかうかしてられない!大切にビンにしまう。
そのビンを、他のビンと同じように棚に置いていくんだ。
ビンが並ぶ、その中にはシアワセ、シアワセ、シアワセ。

わたしのコレクションがともだちの輪を広げたよ。
ビンの中身は償いの星明りになるの。
ともだちが何かを感じて仕方がないとき、
こういうときにビンが役に立つのよ。

夜な夜なの夢、ふくらんで。
ぞくぞくともだち、ビンは増える。
わたしの指はより奥へ、奥へ。
まるで、くらい洞窟の中でいたるところに隠されたヒミツを探るような。
掘って、掘って。
削って、削って。

フタのホコリを吹き飛ばす。
いつの間にか時が過ぎてる。
もっといっぱいあったはずの、空っぽの棚。
カギのかかったドアの向こうからともだちの視線を感じる。

やっとできたよ。ドアを開けると、ともだちが入ってくる。
ドタドタと押し寄せる。そんなにビンがほしいの?
わたしは必死に棚から次々とビンを取りだす。
ともだちひとりひとりに持たせていく。
ひとつひとつ、ぜんぶのビンを。
だけど渡すたびに、足もとのタイルで粉々になっていく。
床にぜんぶ、散らばるシアワセ、シアワセ、シアワセ。

ともだちの、笑わないともだちのためだったんだよ。
みんなみんな叫んでいる。訴えている。何かを。
ただ聞こえるのは残響、残響、残響、残響、残響
わたしの頭の中で。

 

一節め、「ちいさな日光のボール、つまむとあったかくてチクチクするもの」をビンにしまうとある。その後ビンの中のものを「シアワセ」と形容しているということは、サヨリにとってのシアワセって触れたら少し痛いものなんだなと思って、それが切なかった。
サヨリがビンの中につめている「シアワセ」はサヨリの自己犠牲のもとで生まれるもの。ともだちが増えるたび「わたしの指はより奥へ、奥へ」、自分の内側を掘って、削って、すり減らしてでも他人に与えようとする。この詩が出てきてから、文芸部員と交流する主人公を嬉しい嬉しいと(なかば過剰なまでに)言い続けるサヨリを痛々しく感じてしまった。「自分抜きであること」が他人のシアワセの条件だと頑なに信じてしまうのは何故なのだろう。

元が英語のゲームなので、英語のままの詩も読んだ。

Bottles

I pop off my scalp like the lid of a cookie jar.
It's the secret place where I keep all my dreams.
Little balls of sunshine, all rubbing together like a bundle of kittens.
I reach inside with my thumb and forefinger and pluck one out.
It's warm and tingly.
But there's no time to waste! I put it in a bottle to keep it safe.
And I put the bottle on the shelf with all of the other bottles.
Happy thoughts, happy thoughts, happy thoughts in bottles, all in a row.

(後略)

日本語における「シアワセ」が原文では「happy thoughts」となっているのだけれど、これはサヨリの死後に生成される「サヨリが首を吊っているイラスト」のファイル名「hxppy thoughts」と繋がっているのだよねhappy thoughtsは「名案」という意味でも使う単語。「happiness」とかではなく「happy thoughts」と表現されている以上、このダブルミーニングが意図的なものであると感じたい。

サヨリが首を吊ること」は、サヨリにとって「名案」だったのだろうか?あのイラストに「hxppy thoughts」って自分で名付けたのだろうか?どんな気持ちで。
「自分がいなくなること」が名案だなんて思ってほしくなかった。

 

 

海の詩の話

 

・ナツキの書いた「海」の詩

あなたの砂浜になる

 あなたの心は不安と恐れに満ち満ちて
この数年で魅力も褪せてしまった
でも今日はとっておきの場所にいこう
わたしとあなたの砂浜へ。

見渡すかぎりいちめんの岸
艶やかな光をはなつ海
そんなまばゆさの前なら
あなたの心の壁も崩れてしまうよ。

わたしは悩みを洗い流す砂浜になる
あなたがいつも訪れる白昼夢の砂浜になる
こんなときめきをずっと忘れてたんだって
あなたの心が弾むような砂浜になるよ。

重苦しい気分は砂の山に埋めてしまおう
陽ざしを浴びて手をつなごう
とまどいをしょっぱい海で洗ったら
キラキラ光るあなたを見せて。

思い出は足あとの道に残していこう
帆に風をつかんで自由になろう
あなたとわたしの唇を重ねたら
あなたが素敵なわけを思い出して。

わたしは悩みを洗い流す砂浜になる
あなたがいつも訪れる白昼夜の砂浜になる
こんなときめきをずっと忘れてたんだって
あなたの心が弾むような砂浜になるよ。

わたしを隣にいさせてくれれば、あなたは
自分だけの砂浜、自分だけの出口で
また自分を愛せるようになるはずだから。

 

ユリが出した「海」というテーマに基づいて書かれた詩。
私、ほんとうにナツキの詩好きだな。明るさの中だけに宿る切なさってあると思う。
これはユリのことを思って書いた詩なのかなと思ったんだけれど、だとしたらとても大きくて誠実な愛がある。
「わたしとあなたの砂浜へ行こう」といざなっておきながら、最後「あなたは自分だけの砂浜、自分だけの出口でまた自分を愛せるようになる」と結ぶのだ。これもひとつの「そこに私がいなくてもいい」の形だと思うんだけれど、自己犠牲とは少し違うニュアンス。ナツキのこういう強さって、言動にあらわれている「強がり」とはまったく逆の性質のものだなと感じる。
なんというか、例えばサヨリやモニカって言動そのものは明るい一方で言葉の裏面に闇が隠れている子なんだけれど、ナツキって逆だなと思う。口では悪態ついてることが多いのに内包する他人への思いがとんでもなく眩しくて優しい。それが詩に出ている。どっちがよりよいという話ではないんだけれどこの逆行した人物像がとても興味深かった。

 

ユリの書いた「海」の詩

砂浜

気の遠くなるような遠い昔から。
大地の内と外が混ざり続けている場所。
青空の下、喜びが満ち溢れーー
灰色の雲が落とすのは、解けない暗号。
すぐに道を見失ってしまう世界では、
全てを見つけることだってできるはず。

お城が作れるのは砂の湿ったところ。
でもそれは潮の来るところ。
諦めるまで少しずつ、優しく壊してくれる?
それとも瞬きしている間に一気に奪ってしまう?
どちらだって結果は同じ。
それでも人は砂のお城を作るのをやめないの。

浜辺に立つ私の足は泡に濡れて。
足先が砂に沈んでいく。
心地良い潮の香り。
吹き付ける潮風は優しく、力強い。
絡みつく泡をもっと感じたくて、私はどこまでも砂を踏みしめる。
我に返って、砂浜を荒らす遊びをやめたら。
前を向いて、私は陸に戻る。永遠に。

 

大地の内と外(陸と海)を現実と非現実に喩えているような詩。砂浜はちょうどその「あわい=境界」と言える。ひとつひとつの単語は美しいのにどことなくかおる痛々しさがユリの詩だなあと思わせるんだけれど、ユリの詩の中ではこれが一番好き。
砂の城ってなんのことだろうと考える。人間関係、とも、幸せ、ともとれるような気がする。たとえ崩れ去ってしまう未来があったとしても、それでも築くことをやめない人間の性の話だと思った。そしてこの仮説を通すならば、「諦めるまで少しずつ、優しく壊してくれる?それとも瞬きしている間に一気に奪ってしまう?」という文が、「私は幸せにはならない」というユリの諦観をうつしているようで寂しかった。

ユリが自死した時の感覚がずっと胸に残っている。

 

 

モニカのこと

 

前回の記事に私が書いたことを読み返した。
ところでモニカはさっきの単語選びのところを見る限り攻略対象ですらなかったけれど、このゲームにおける案内人的な立ち位置なのかな?と考えた。

そう、攻略対象ですらなかった。私はそこに憤りも疑問も特に抱かずに、「案内人的な立ち位置」というラベリングまでして、彼女の存在にピントをまったく合わせていなかった。

「ゲームのキャラクターに自我があったら」というif、これだけだったら特段珍しい設定ではないのかもしれない。でもそこで「たったひとり自分がゲームの中のプログラムだと気付いたキャラクターが、攻略対象の中に自分だけがいないことに気づいてしまったら」というifが重なることで強烈に苦しくならないだろうか?
どうしても考えてしまう。はじめてモニカが「自分のいる世界が、自分の存在が虚構であること」「自分抜きで展開されていく主人公と他のキャラクターの恋模様」「そこに自分は介入できない、ように作られていた」に気づいた瞬間のこと。

 

文芸部へようこそ!私の夢は大好きなことを通して、特別なものを作り出すこと。
新入部員のあなたには、その夢をこの可愛いゲームで実現させるお手伝いをしてほしいの!
部活は毎日お喋りと楽しい活動でいっぱい!

一緒に過ごす個性豊かなかわいい部員たちを紹介するわ。
幸せを大事にする、太陽のように元気なサヨリ
芯が強くて、ちょっと小悪魔なナツキ。
本の世界に安らぎを見出す、ひかえめでミステリアスなユリ。
そしてもちろん、部長のモニカ!それが私!

部員と絆を深めて、文芸部をみんなにとって特別な場所にしましょうね。
でも私はあなたのことをもっと知りたいな。
誰よりも私と一緒に過ごすって約束してくれる?

 

モニカが書いたこの文、丁寧に三人のことを紹介してくれているのに、モニカのことは「部長」としか書かれていない。
作詩の対象にいなかったから、私はモニカの琴線に触れる言葉をひとつも知らなかった。
モニカと二人きりになった教室で、モニカが雨音が好きなこと、ベジタリアンだってこと、ツイッターやってること、はじめて知ることをたくさん話してくれた時、やっとモニカという女の子に触れられた気がして正直嬉しかった。許されない改変を重ねてきた子だとしても。

この記事の冒頭、「これは現実ではないのだし」と書いた。ずっとそう思いながらプレイしていた。それこそがモニカを苦しめてきたのだと、それこそがモニカの孤独なのだと気づいた時、私はいよいよつらくなってしまって、もう二度とやらない、と思った。

 

「もう二度と来ない」と笑って言って終わったすぎるのドキ文は、同じことを言っているはずなのに逃避ではなく、明るさすらあった。
最後"your reality"が流れている時、「私にエンディングを書いてくれないこの世界で 何をすれば全てが手に入れられるの?」という歌詞に対してすぎるが「いや何も手に入らない!」と言い返す。これだけじゃなくて最後の方のすぎるって相手の言動に対してばさーっと反論することが多かったと思うのだけれど、でも決して拒絶ではないところがいい。なんやとー!!って大声で言いながら肩に手をまわすようなそれだと思う。「いや何も手に入らない!」って言った時だって、それで終わらずに「でもこうやって思い出が残った」「それだけ手に入れた」と続くのだ。

 

私がプレイしただけではたどり着かないような、さまざまな感覚を見せてくれたのがすぎるのドキ文だったように思う。

「あなたを捕まえるのと、自由にするのと、どちらが愛なの?」というモニカに対して、すぎるは「どちらも愛やろ!」と答える。
さまざまなかたちの愛という、サヨリやナツキやユリ、そしてモニカを通して触れてきたものの結実を、言葉にしてくれてありがとう。

 

 

 

 

 

 

だけどそれくらい。

 

少し前にドキドキ文芸部!をプレイした。クリアしたとは書けない。最後の敵を倒すこと、世界を救うこと、「クリア」にも色々あると思うけれど、ドキ文を「クリアする」ってどういうことを指すのだろうと、つい考えてしまう。

 

以下、超散文的な感想です。
※ネタバレを含みますが、すぎるの2月3日投稿回以降のストーリーには触れていません。

 

 

 

サヨリ、ナツキ、ユリ、モニカが揃い、まだ誰の詩も読んでいない時点で初めに「この子を攻略しよう」と思ったのがユリだった。(超・相対的に見て・超・どちらかといえば)私はサヨリやナツキやモニカと比べたらユリに近い性格なんじゃないかなという気持ちがあって、だから好き、嫌いとか抜きにして「この子を不幸にしたくないな」と思ってしまったのかもしれない。(女の子と恋愛するゲームを初めてやったので、主人公側と女の子側どちらに立てばいいのか迷子になっていた)
ユリに好かれるぞ!という気持ちで挑んだ最初の作詩、この時点では私にはサヨリもナツキも「明るめの子」に見えていたので、この二人のどちらかを攻略したいと思った場合、ポジティブな単語を選択してもどちらが喜ぶか分からなくて難しいだろうな…と感じていた。その点ユリは「ちょっと陰鬱で哲学的なものを選べばいいんだよね」とすぐに察しがついたので、この子を攻略するのは結構かんたんかもしれないな~とまで思うくらい、頭がゆるんでいた。
ゆるんでいたので、何度目かの単語選択で「鬱」をクリックした後画面脇の小さなサヨリがぴょんと跳ねた時は、突然平手打ちされたような衝撃があった。

 

サヨリに何かあるんだなと漸く察した私は、ユリのことを気にかけつつも要所要所でサヨリを注視した方がいい、と思うようになった。
・ナツキみたいないかにもなツンデレの女の子は可愛いんだけどタイプ!というわけでもないし、この子は暗い単語にも反応しなかったので、正直あまり気に留めず。
・ところでモニカはさっきの単語選びのところを見る限り攻略対象ですらなかったけれど、このゲームにおける案内人的な立ち位置なのかな?と考えた。

 ・それなのに最初の詩を読んだ途端私が大好きになってしまったのはナツキだった。

 

〈ナツキの最初の詩〉

Eagles can fly

Monkeys can climb
Crickets can leap

Horses can race
Owls can seek
Cheetahs can run
Eagles can fly
People can try
But that's about it.

ワシは飛べる

サルは登れる
コオロギは飛び跳ねられる
ウマは駆けっこできる
フクロウは見つけられる
チーターは走れる
ワシは飛べる
ヒトは努力できる
だけどそれくらい。

 

・この詩とても、とても好きだな。
「ヒトができること」として最初に思いつくものってなんですか?
少なくとも私は努力ではなかった。この子はここに書くたったひとつに「努力」を選ぶ子なんだという事実、これだけで一気にナツキの人物像に深みを感じませんか?
直前まで「いかにもなツンデレ」って思っていた自分の解像度の低さが恥ずかしい。
(細かいことだけれど最後の行にだけ句点を用いるナツキの感性が日本語に翻訳するときにもきちんと継承されているの、素晴らしい) 

・この詩の「だけどそれくらい。」は詩全体にかかっているともヒトだけにかかっているとも取れるのだけれど、後者かなと思って読んだ。「飛ぶ」は一つの完結した行為だけれど、「努力」ってその前の、過程の話なので。努力しても飛べないことだってある。現に私は飛べない。努力できても何も成せずに終わったりする。「だけどそれくらい。」からはそういう諦念を感じた。
・この詩を見せてくれた後に言った「周りのみんなが上手くいっていたりするとなんだか落ち込んだりする」これは他の部員に比べて技巧的な表現を持たない自分に対する劣等感とも取れる言葉だった。
・それでも「私はガツンと来るのが好きなの」と言ってみせたり、他の部員に比べて自画自賛が多いところに、腐って終わらない強さがある。自分の言動を以て自分を鼓舞していく健気さ。葛藤しながらも自己を肯定できる人は美しい。

 

・一気にナツキのことが好きになってしまったので、ユリの攻略をどうしようか、サヨリのことはどうフォローしていこうか、ひとりに絞って考えることができず以降優柔不断なムーヴを繰り返すことになる。
ユリが気に入りそうな単語を選ばなきゃと思うのにどうしてもサヨリの深淵を覗きたくなってサヨリ基準で選んでみたり、一方で一番読みたいのはナツキの詩だったり。ユリと一冊の本を二人でいちゃいちゃ読んだりしたくせに文化祭の手伝いではナツキを選んだり、サヨリに告白するか本気で迷ったり。自分でも自分がどうしたいのか分からなかった。

・だからサヨリが首を吊った時は、真っ先に「自分の優柔不断さが悪かったんだ」と思った。一周目で一番ヒロインっぽい子を死なせちゃうことがあるんだって。二周目はまずサヨリを守ることを最優先にしないと駄目だなって。

 ・二周目にサヨリはいなかった。

 

ここまで書いてすぎるのドキ文を最新パートまで観たら、ちょうど上のところまで進んでいた。
いや、とても良くないですか?すぎるの実況。良………

抜粋したい言葉は沢山あるのだけれど、最近のものだとサヨリが「私怖いの、すぎる。すごく怖い……すぎるがわたしを好きな気持ち以上に私がすぎるを好きかもしれないってこと」と漏らすくだり。ここって「そんなことないよ、同じくらい好きだよ」とか「いやこっちの方が好きに決まってんじゃん」とか返したくなってしまうところだと思う。相手を安心させようとして。
でもすぎるはここで「これからもデッドヒートしてやっていこうぜそれ そんなもんさあ、日々変わるでしょ!」と返す。釣り合わない時ごと肯定する。相手の愛の重さを否定しない、軽んじない。
ツイートしたこともあるんだけれど、前にすぎるが「ネットに居場所を作ること」についての話をしていて。「リアルの生活がキツいねん。キツくない人ってこの日本中々いないのよ実生活。しんどいの前提やねん。その中でちょっとした支えであり、逃げ道であり、何回救われたか俺、この、すぎるという居場所」と。今回もサヨリに「駆け落ちしよう、北国逃げよう!」って言うんだよね。こういうすぎるの「逃げてもいい」ってスタンス、ほんとに眩しいなって思う。

 

・すぎるが実況を終えた時に、プレイ後の感想のつづき(とすぎるの実況の感想のつづき)を書きたい。未だに着地できずにふわふわしている感情の断片が沢山ある。

 

・このゲームを終えた時、荒川洋治の「詩とことば」という本の中の一文を思い出した。

「詩とは、その言葉で表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在するということ」

 

彼女たちの詩のすべてを「理解」「共感」しようと思って読まなくてもいいということ。たとえすべてを理解できなかったとしても、「この人には世界がこういうふうに見えたんだな」とただ感じること。自分には無い視点で世界を捉えた人が、たった一人、確実にそこに存在していたことを、胸に留めること。忘れないこと。