さまざまなかたちの愛

 

前に書いたドキ文の感想、の、続きです。

○前回

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プレイしながら、ゲームにおける、びっくり系の演出やホラー展開に強いのかもしれない、ということに気がついた。
「これは現実ではないのだし」とはなから思っているからか、正直まったく怖くない。
サヨリが首を吊っていた時も「どうしよう」と思いこそすれ、演出に対しての驚きはそこまでなかった。作詩におけるさまざまな単語の蓄積によって、こういう展開もあり得ると頭の隅にあったのかもしれない。

何より「これは現実ではないのだし」。

 

 

サヨリが読んだビンの詩の話

 

ビン

クッキー缶のフタのように、頭をパカッと開ける。
わたしの夢をぜんぶつめた、ヒミツの場所よ。
ちいさな日光のボールが集まって、子猫のようにすり寄ってくる。
親指と人差し指とで、ひとつつまむ。
あったかくて、ちくちくするの。
でもうかうかしてられない!大切にビンにしまう。
そのビンを、他のビンと同じように棚に置いていくんだ。
ビンが並ぶ、その中にはシアワセ、シアワセ、シアワセ。

わたしのコレクションがともだちの輪を広げたよ。
ビンの中身は償いの星明りになるの。
ともだちが何かを感じて仕方がないとき、
こういうときにビンが役に立つのよ。

夜な夜なの夢、ふくらんで。
ぞくぞくともだち、ビンは増える。
わたしの指はより奥へ、奥へ。
まるで、くらい洞窟の中でいたるところに隠されたヒミツを探るような。
掘って、掘って。
削って、削って。

フタのホコリを吹き飛ばす。
いつの間にか時が過ぎてる。
もっといっぱいあったはずの、空っぽの棚。
カギのかかったドアの向こうからともだちの視線を感じる。

やっとできたよ。ドアを開けると、ともだちが入ってくる。
ドタドタと押し寄せる。そんなにビンがほしいの?
わたしは必死に棚から次々とビンを取りだす。
ともだちひとりひとりに持たせていく。
ひとつひとつ、ぜんぶのビンを。
だけど渡すたびに、足もとのタイルで粉々になっていく。
床にぜんぶ、散らばるシアワセ、シアワセ、シアワセ。

ともだちの、笑わないともだちのためだったんだよ。
みんなみんな叫んでいる。訴えている。何かを。
ただ聞こえるのは残響、残響、残響、残響、残響
わたしの頭の中で。

 

一節め、「ちいさな日光のボール、つまむとあったかくてチクチクするもの」をビンにしまうとある。その後ビンの中のものを「シアワセ」と形容しているということは、サヨリにとってのシアワセって触れたら少し痛いものなんだなと思って、それが切なかった。
サヨリがビンの中につめている「シアワセ」はサヨリの自己犠牲のもとで生まれるもの。ともだちが増えるたび「わたしの指はより奥へ、奥へ」、自分の内側を掘って、削って、すり減らしてでも他人に与えようとする。この詩が出てきてから、文芸部員と交流する主人公を嬉しい嬉しいと(なかば過剰なまでに)言い続けるサヨリを痛々しく感じてしまった。「自分抜きであること」が他人のシアワセの条件だと頑なに信じてしまうのは何故なのだろう。

元が英語のゲームなので、英語のままの詩も読んだ。

Bottles

I pop off my scalp like the lid of a cookie jar.
It's the secret place where I keep all my dreams.
Little balls of sunshine, all rubbing together like a bundle of kittens.
I reach inside with my thumb and forefinger and pluck one out.
It's warm and tingly.
But there's no time to waste! I put it in a bottle to keep it safe.
And I put the bottle on the shelf with all of the other bottles.
Happy thoughts, happy thoughts, happy thoughts in bottles, all in a row.

(後略)

日本語における「シアワセ」が原文では「happy thoughts」となっているのだけれど、これはサヨリの死後に生成される「サヨリが首を吊っているイラスト」のファイル名「hxppy thoughts」と繋がっているのだよねhappy thoughtsは「名案」という意味でも使う単語。「happiness」とかではなく「happy thoughts」と表現されている以上、このダブルミーニングが意図的なものであると感じたい。

サヨリが首を吊ること」は、サヨリにとって「名案」だったのだろうか?あのイラストに「hxppy thoughts」って自分で名付けたのだろうか?どんな気持ちで。
「自分がいなくなること」が名案だなんて思ってほしくなかった。

 

 

海の詩の話

 

・ナツキの書いた「海」の詩

あなたの砂浜になる

 あなたの心は不安と恐れに満ち満ちて
この数年で魅力も褪せてしまった
でも今日はとっておきの場所にいこう
わたしとあなたの砂浜へ。

見渡すかぎりいちめんの岸
艶やかな光をはなつ海
そんなまばゆさの前なら
あなたの心の壁も崩れてしまうよ。

わたしは悩みを洗い流す砂浜になる
あなたがいつも訪れる白昼夢の砂浜になる
こんなときめきをずっと忘れてたんだって
あなたの心が弾むような砂浜になるよ。

重苦しい気分は砂の山に埋めてしまおう
陽ざしを浴びて手をつなごう
とまどいをしょっぱい海で洗ったら
キラキラ光るあなたを見せて。

思い出は足あとの道に残していこう
帆に風をつかんで自由になろう
あなたとわたしの唇を重ねたら
あなたが素敵なわけを思い出して。

わたしは悩みを洗い流す砂浜になる
あなたがいつも訪れる白昼夜の砂浜になる
こんなときめきをずっと忘れてたんだって
あなたの心が弾むような砂浜になるよ。

わたしを隣にいさせてくれれば、あなたは
自分だけの砂浜、自分だけの出口で
また自分を愛せるようになるはずだから。

 

ユリが出した「海」というテーマに基づいて書かれた詩。
私、ほんとうにナツキの詩好きだな。明るさの中だけに宿る切なさってあると思う。
これはユリのことを思って書いた詩なのかなと思ったんだけれど、だとしたらとても大きくて誠実な愛がある。
「わたしとあなたの砂浜へ行こう」といざなっておきながら、最後「あなたは自分だけの砂浜、自分だけの出口でまた自分を愛せるようになる」と結ぶのだ。これもひとつの「そこに私がいなくてもいい」の形だと思うんだけれど、自己犠牲とは少し違うニュアンス。ナツキのこういう強さって、言動にあらわれている「強がり」とはまったく逆の性質のものだなと感じる。
なんというか、例えばサヨリやモニカって言動そのものは明るい一方で言葉の裏面に闇が隠れている子なんだけれど、ナツキって逆だなと思う。口では悪態ついてることが多いのに内包する他人への思いがとんでもなく眩しくて優しい。それが詩に出ている。どっちがよりよいという話ではないんだけれどこの逆行した人物像がとても興味深かった。

 

ユリの書いた「海」の詩

砂浜

気の遠くなるような遠い昔から。
大地の内と外が混ざり続けている場所。
青空の下、喜びが満ち溢れーー
灰色の雲が落とすのは、解けない暗号。
すぐに道を見失ってしまう世界では、
全てを見つけることだってできるはず。

お城が作れるのは砂の湿ったところ。
でもそれは潮の来るところ。
諦めるまで少しずつ、優しく壊してくれる?
それとも瞬きしている間に一気に奪ってしまう?
どちらだって結果は同じ。
それでも人は砂のお城を作るのをやめないの。

浜辺に立つ私の足は泡に濡れて。
足先が砂に沈んでいく。
心地良い潮の香り。
吹き付ける潮風は優しく、力強い。
絡みつく泡をもっと感じたくて、私はどこまでも砂を踏みしめる。
我に返って、砂浜を荒らす遊びをやめたら。
前を向いて、私は陸に戻る。永遠に。

 

大地の内と外(陸と海)を現実と非現実に喩えているような詩。砂浜はちょうどその「あわい=境界」と言える。ひとつひとつの単語は美しいのにどことなくかおる痛々しさがユリの詩だなあと思わせるんだけれど、ユリの詩の中ではこれが一番好き。
砂の城ってなんのことだろうと考える。人間関係、とも、幸せ、ともとれるような気がする。たとえ崩れ去ってしまう未来があったとしても、それでも築くことをやめない人間の性の話だと思った。そしてこの仮説を通すならば、「諦めるまで少しずつ、優しく壊してくれる?それとも瞬きしている間に一気に奪ってしまう?」という文が、「私は幸せにはならない」というユリの諦観をうつしているようで寂しかった。

ユリが自死した時の感覚がずっと胸に残っている。

 

 

モニカのこと

 

前回の記事に私が書いたことを読み返した。
ところでモニカはさっきの単語選びのところを見る限り攻略対象ですらなかったけれど、このゲームにおける案内人的な立ち位置なのかな?と考えた。

そう、攻略対象ですらなかった。私はそこに憤りも疑問も特に抱かずに、「案内人的な立ち位置」というラベリングまでして、彼女の存在にピントをまったく合わせていなかった。

「ゲームのキャラクターに自我があったら」というif、これだけだったら特段珍しい設定ではないのかもしれない。でもそこで「たったひとり自分がゲームの中のプログラムだと気付いたキャラクターが、攻略対象の中に自分だけがいないことに気づいてしまったら」というifが重なることで強烈に苦しくならないだろうか?
どうしても考えてしまう。はじめてモニカが「自分のいる世界が、自分の存在が虚構であること」「自分抜きで展開されていく主人公と他のキャラクターの恋模様」「そこに自分は介入できない、ように作られていた」に気づいた瞬間のこと。

 

文芸部へようこそ!私の夢は大好きなことを通して、特別なものを作り出すこと。
新入部員のあなたには、その夢をこの可愛いゲームで実現させるお手伝いをしてほしいの!
部活は毎日お喋りと楽しい活動でいっぱい!

一緒に過ごす個性豊かなかわいい部員たちを紹介するわ。
幸せを大事にする、太陽のように元気なサヨリ
芯が強くて、ちょっと小悪魔なナツキ。
本の世界に安らぎを見出す、ひかえめでミステリアスなユリ。
そしてもちろん、部長のモニカ!それが私!

部員と絆を深めて、文芸部をみんなにとって特別な場所にしましょうね。
でも私はあなたのことをもっと知りたいな。
誰よりも私と一緒に過ごすって約束してくれる?

 

モニカが書いたこの文、丁寧に三人のことを紹介してくれているのに、モニカのことは「部長」としか書かれていない。
作詩の対象にいなかったから、私はモニカの琴線に触れる言葉をひとつも知らなかった。
モニカと二人きりになった教室で、モニカが雨音が好きなこと、ベジタリアンだってこと、ツイッターやってること、はじめて知ることをたくさん話してくれた時、やっとモニカという女の子に触れられた気がして正直嬉しかった。許されない改変を重ねてきた子だとしても。

この記事の冒頭、「これは現実ではないのだし」と書いた。ずっとそう思いながらプレイしていた。それこそがモニカを苦しめてきたのだと、それこそがモニカの孤独なのだと気づいた時、私はいよいよつらくなってしまって、もう二度とやらない、と思った。

 

「もう二度と来ない」と笑って言って終わったすぎるのドキ文は、同じことを言っているはずなのに逃避ではなく、明るさすらあった。
最後"your reality"が流れている時、「私にエンディングを書いてくれないこの世界で 何をすれば全てが手に入れられるの?」という歌詞に対してすぎるが「いや何も手に入らない!」と言い返す。これだけじゃなくて最後の方のすぎるって相手の言動に対してばさーっと反論することが多かったと思うのだけれど、でも決して拒絶ではないところがいい。なんやとー!!って大声で言いながら肩に手をまわすようなそれだと思う。「いや何も手に入らない!」って言った時だって、それで終わらずに「でもこうやって思い出が残った」「それだけ手に入れた」と続くのだ。

 

私がプレイしただけではたどり着かないような、さまざまな感覚を見せてくれたのがすぎるのドキ文だったように思う。

「あなたを捕まえるのと、自由にするのと、どちらが愛なの?」というモニカに対して、すぎるは「どちらも愛やろ!」と答える。
さまざまなかたちの愛という、サヨリやナツキやユリ、そしてモニカを通して触れてきたものの結実を、言葉にしてくれてありがとう。