縞模様の頬

駅で売られている「チキン弁当」の、チキンライスと唐揚げ、というシンプルな構造が好きだ。昔から、売り物の弁当って構成要素が少ないほうがいいんじゃないかと思っている。要素が多くなると、その分美味しさへの企業努力を分配しなければならなくて、結果的に全てがそこそこになってしまうのかもしれない。「チキン弁当」にはふたつしかないから、企業努力も、半分ずつ分け合うことができている。
その、「チキン弁当」の唐揚げだけを詰めた「チキン弁当のからあげ」という商品がある。帰省する時にたまにビールと一緒に買って、窓の外を眺めながら食べていた。「チキン弁当のからあげ」は、チキンライスがなくなっても半分の状態が続いている味をしている。いつも空白のチキンライスのことが思い浮かぶ。存在している時のありありとした輪郭よりも、そこに無いものの、無さの方が鮮やかな気がする。

この前観た演劇の、「懐かしさはセピア色なんかしてないね。いつだって懐かしさがいちばん鮮明な色彩」という台詞がとても好きだった。

帰省って難しいなと思う。いつもはきちんと抱えていられる家族への思いすらも、いざ実在する屋根の下で、実在する彼らと声を交わした途端に抱えきれなくなってしまう。離れている間、私には私だけの時間が流れており、同じだけ向こうにも向こうだけの時間が流れており、別々に生きていて、予想もつかない言動や理解の追いつかない思考回路に直面することがあっても当たり前なのに、会って食卓を囲むといとも簡単にその前提が抜け落ちそうになってしまう。
「離れている間」だけではなくて本当は同じ家で暮らしていたその時もずっと別々の人間として別々に生きていたのに、それに気付けなかったことで、私は多分たくさんの理不尽な「どうして」の中でぐずぐずに煮詰まっていた。
「家族は特別な他人」なのだと、数年前から自分に言い聞かせている。
はじめから、抗いようもなく特別だったのだから、だからこそ特別に愛さなくてもいいのかもしれない。「家族への思い」をきちんと抱えていなければと思うことでギャップに苦しむのであれば、べつに思いなんて無くたっていいのかもしれない。

 

さっき引用した台詞の出てきた演劇は何人かの友人と観に行ったんだけど、あまりにもよかったもので、ずっと泣きそうだった。終演後にぞろぞろ外に出て冷たい空気にあたった瞬間、あーだめかもと思って、「サイゼ行きます?」と話しかけられたあと「今喋ったら泣いちゃう」と答えたら、ほんとうにぼろぼろ涙が出てきてめちゃくちゃ恥ずかしかった。「あ〜〜」と笑う友人と連れ立ってサイゼに行って、いちばんでかいワインのボトルを二本頼んで、ごはんもいっぱい頼んで、終電ぎりぎりまで話して別れて、家に帰って鏡を見たら見事な涙の筋が何本も頬を走って縞模様になっていた。「ファンデーション!」と思った。なんか言ってほしかった、でも言わないでいてくれてありがとう。